北陸の峠道


湯尾峠(ゆのおとうげ)


ハッピーマンデイを入れて3連休だったが、真ん中の日曜が町内会の総会だった
のが惜しい。しかもその日だけが雨が降らなかったのだ。一日位は出掛けなきゃ
と思って,成人の日に小雨の中湯尾峠に向かう。
国道365号線を今庄町湯尾で山側へ曲がるとすぐに峠入り口の標柱や峠につ
いての説明を書いた案内板がある。その50m手前にも大きな地図や見所を書
いた案内板がある。峠にも孫嫡子神社の由来などの石碑があり、これらを読む
だけでずいぶんと勉強になるのだ。

昔からよく使われた道らしく広い。苔むした上に杉の枯葉が落ちていて,天気で
乾いていたらゆっくりと散策するには趣のある道だと思う。しかし今は、雨の切れ
目をこの時とばかりに小走りに登る。ほんの10分か15分だが息切れがしてしま
う。おまけに途中雪があったりするのである。

湯尾峠は海抜約200m八ケ所山、三ケ所山に囲まれた鞍部にある。旧北陸道の要地として栄えて来た峠です。府中より湯尾の宿へ、約百m上がり坂となって頂上に達する。さらにこの峠を越えて今庄の宿、木の芽峠、栃の木峠を経て京都に通ずる。
天正六年(1578)北の庄城主柴田勝家によって大改修が加えられた。頂上には、疱瘡を祀る神社、そのお守りを売る茶屋が四軒あって大いに栄えたと云われている。
また、戦略上の要地として、ひうち城の戦い、そま山の戦、一向一揆の戦など幾多の抗争がこの峠を中心として行われた。明治十一年(1878)明治天皇ご巡幸の時に、御小休みされたので記念碑が建てられてある。松尾芭蕉は、この地で「月に名を 包みかねてや いもの神」の句を残している。約壱千有余年の歴史を秘めたこの峠も、時代の伸展に伴い、明治二十九年鉄道の開通によって次第にさびれて現在に及んでいる。                                  今庄町教育委員会

峠は広場のようになっていて、芭蕉が奥の細道紀行のときに詠んだといわれる
「月に名を つつみ兼ねてや いもの神」の句碑がある。先の見所を書いた案内
板には句の後に(ひるねの種)とあるのだが、この意味が判らない。句の意味も
判らないのだからどうしようもないが「疱瘡の神」を「いもの神」と詠むらしいのだ
。元禄二年八月十五日の夜敦賀で,芭蕉は一夜に15句を詠んだと云われ、そ
の中の一句なのだという。芭蕉は湯尾峠の茶店で,疱瘡除けのお札でも買った
のだろうか。

西端には「疱瘡の神」と云われる孫嫡子神社があり、傍らの石碑には峠に老夫
婦住みて子なきを嘆く、通りかかった役小角(えんのおづぬ)が哀れんで如意輪
観音の七星の神呪を授けた。暫くして娘現れ子となり、光明童子の化身現れて
娘と結ばれて子を授け云々とある。
そして孫嫡子長じて奈良東大寺等に学び、この地に庵をむすび観音を祭り人々
の災厄を除き開導せしむ。この文献等は、湯尾旭地区末口家に保存されている
とあるのが興味深い。
醍醐天皇疱瘡を患い当社に祈願したらたちまちに平癒したまう、それより疱瘡の
神として世に伝わった,のだそうだ。

この峠は、古来より北陸と京都を結ぶ要衝であった。山中峠越え、木の芽峠越え
そして栃の木峠越えの道はすべて今庄宿に合流し,ここ湯尾峠を通って武生へ
と向かったのである。峠には明治初めまで4軒の茶店があったとある。
要衝であったが故に幾多の戦乱に巻き込まれ,峠の周囲は湯尾城として利用さ
れたらしい。峠付近は道の両側が石積みになっていて、古道らしさが感じられて
いい。春になったらここから藤倉山に登ってみようと思う。

あちこち写真を撮っているうちに木々から水滴が落ちてくるし、200mくらいなの
にガスが上がってくるしで、カメラを被いながら一目散に下ったのでありました。

(2000/01/10)



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