北陸の峠道


倶利伽羅峠

3月下旬というのに強い風と共にみぞれが降って寒い週末となってしまった。そこで今日の峠巡りは結局の
ところ歩くのをやめて車で行ける場所ということで倶利伽羅峠に向かった。

北陸高速道の小矢部ICから近くて判りやすい。旧北陸道の今はふるさと歩道と名づけられた道の入り口を
(埴生八幡宮の近く)確かめて源平ラインを上がった。古戦場で有名な処だし、古い街道筋だけあって塚や
石碑などがいくつも道沿いに在る。巴塚に葵塚芭蕉の句碑、万葉の歌碑、平維盛が本陣を張ったという
猿ケ馬場、峠の茶屋の賑わいを記した十返舎一九の説明書き等々、吹雪いていたので詳しく全部を見て回
らなかったが沢山あるのだ。


(猿ケ馬場・平家の本陣跡・この周りに集まり会議をしたとある)
観光案内板も要所要所にあるのだが、雨風で其処ここが消えている。倶利伽藍県定公園マップというのは、
しっかりしているのだが、描き方が整理しすぎているきらいがあり、ここが峠だという場所を特定するのに苦労し
た。結局源平供養塔の横に100mほどの旧北陸道が残っており、別に標識はないがここが峠ということにした。
まあ、この辺一帯を峠と云うのだろうけど。 ここには飯尾宗祇の連歌の歌碑と説明版がある。


(倶利伽藍峠・この右手に宗祇の歌碑がある)
倶利伽藍とはインドの高僧が北陸へ来たおり、この地に倶利伽藍不動明王を勧請して一寺を開創、剣に巻き
ついた黒い龍がそれで、地名の「くりから」の由来であるという。現在の不動寺は昭和24年に建てられたもの
で、もとは倶利伽藍不動長楽寺で、火災にも遭ったし明治維新の神仏分離令により廃寺となった。


(倶利伽藍不動寺)
風雪の中、小走りで不動寺の写真をとったり、108段の石段を駆け上がって国見山の護摩堂まで行ったが
このときは風を遮るものなく吹き飛ばされそうな感じで、立ち止まることなくそのまま駆け下りた。

1183(寿永2)年5月平維盛率いる平家軍と木曽義仲軍の合わせて6万有余が、世に云う砺波山の戦いを
行ったのである。夜更けに義仲軍が放った火牛により平家軍は大混乱を起こし、1万8000人が地獄谷で死
んだという。この小さな山に6万人もの人間が集まることからして想像出来ないのだが、それが皆食事をし用
を足したと思うと尚更だ。数千本の桜で賑わう春にもそんなに沢山の人が集まることはないであろうに。

参勤交代が行き交い、芭蕉や十返舎一九など歌人や多くの旅人で賑わった倶利伽羅峠、暖かくなったら
是非埴生八幡宮から旧北陸道を歩いて辿りたい。

(’00−03−25)



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