病院の風景

向かいの爺さん

私の居る部屋は6人部屋で、片側3人づつが足をむけあっている。私は真ん中で向か
いはしょぼくれた爺さんだった。昼間はいくらウロチョロされても構わないが、夜中の二時
三時に頻繁に部屋を出入りし、 あちこちガタピシさせたり、水道の水をキチンと止めなか
ったりするので、私は目が冴えてしまうのだ。

3月2日の夜中、私は目が覚めた。もう五時頃かなと思ってラジオを聞いたら、まだ二時
すぎだったのだ。 昼間眠るし、夜は九時消灯だから夜中に目が覚めるのは仕方がない。
丁度NHKFMの深夜放送は、 ビバルディを聴かせてくれたし、午前三時からは、西田佐
知子の歌を特集で流してくれた。

西田佐知子は、私が高校を卒業して入ったレコード会社の専属歌手だった。私は録音
課に配属された ので、すぐに録音の手伝いをさせられて、あの「アカシヤの雨が止むとき」
の収録の時は、テープレコー ダーを回す役をしていた。「コーヒールンバ」は、前もって録
音した伴奏に合わせて、西田さんが唄うのを 私がミキシングをして録音した曲だ。側に人
が付いていてあれこれ言うのだから、別にたいしたことでは ない。
そんなことを懐かしく想い出しながら、何曲か西田さんの歌を聴いていたのだが、看護婦
さんの見回りを 機に想い出に浸ってはいられなくなった。

フトンを替えるだの下着を着替えるだのの騒ぎになっているのだ。狭い部屋の中で、し
かも深夜だから、 いくら看護婦さんがひそひそ声で話しても、丸聞こえになってしまう。
看護婦さんが「もうパンツがないから パッチをはきましょうね」と言っている。爺さんのぶ
つぶつと云う声が聞こえる。
看護婦さんの仕事は本当に大変だなとつくづく思ったのである。

一段落して看護婦さん達が引き上げて静かになったと思ったら、またすぐに爺さんは起
き出してウ ロチョロし始めた。室内にある便所の電気を点けたり消したり繰り返し、便所
の戸をガタピシと開け閉め する。この音が大きい。この爺さんは10分と横になっていな
い様子なのである。

私も、脳血管の詰まり方によっては、こんなことになっていたかもしれないと思うとぞっと
する。考えるだけ でもじんましんが出そうになるのだ。



次のページへ   「病院の風景」の目次へ   前のページへ