隠れ家周辺点描
高山右近の碑
今日の散歩コースは、隠れ家から40分程かかる矢蔵谷や末吉の集落を通って「志賀・道の駅」へ向かう
道だ。 専長寺や末吉日吉神社の前を過ぎると、道端に「高山右近の碑」という標柱を見つけた。 矢印に
従って山手へ入ると、数分で墓の様な十字型の石碑があった。 花が飾ってあり綺麗に手入れがされて
いる。途中の案内の標柱もすべて「碑」とあったが、十字型の石碑には「高山右近墓所」と刻まれていた。
周囲には幾つかの墓もあったので、「碑」というより「墓」なのかも知れない。なんでも、その付近に右近の
遺骨の一部と遺品が埋葬されていたのだそうである。

高山右近の碑
また道路に戻って先へ進むと、すぐに高山右近の銅像が見えて 「高山右近記念公園」とあった。「高山
右近とその子孫」と題した説明書きがあったので、それをそのままご紹介することにします。
| 高山右近とその子孫 キリシタン大名・高山右近は、天文21年(1552年)摂津高山で、高山飛騨守友照の長子として生まれ 、永禄7年(1564年)12歳の時、イルマン・ロレンソより受洗、洗礼名は「ジュスト」と名付けられた。 その後、右近は天正元年(1573年)21歳で高槻城主となり、キリシタン大名として名を世に轟かせた。 また、一方では、右近は千利休七哲の1人として知られている茶人であり、詩人でもあった。さらにまた 、金沢城の修築、高岡城の設計などに尽力した建築家でもあり、徳川家康が「右近の手兵一千を、他の 将の一万の兵より恐れる」と認めた程の戦術家でもあった。 しかし、右近は、豊臣秀吉のバテレン追放令により武将たる地位と禄を奪われ、天正16年(1588年) 加賀藩前田利家に預けられ、さらに慶長19年(1614年)には、徳川家康のキリシタン禁教令にあって 妻子共にルソン島マニラへ追放された。マニラでは、ただ信仰ゆえに追放された右近は、勇者として聖人 、殉教者として歓迎されたが、間もなく熱病の為倒れ、慶長20年(1615年)63歳でその聖なる一生を 終えた。また妻子もその後を断ったものと思われていた。 ところが、実際には志賀町代田と大分市萩原にその子孫が残っていることが記録されている。萩原にあ る享和二年(1802年)の碑文には、萩原の高山氏は右近の次男亮之進の子孫で、大友義統候が亮之 進が幼少なので憐れんでこれをかくまったものであり、加賀には右近の長男十次郎の子孫が連綿として 続いていると記してあることや、代田の高山家には代々受け継がれている高山節庵の画像があり、その 賛文には高山氏は右近の子孫であるということが記されていることなどから、代田の高山氏は長男十次 郎の子孫であると言われている。 家伝に依れば、マニラから帰国した右近の孫の一人が知行地であったここ志賀町末吉に腰を落ち着け、 その子孫は代々医者(通称「ジンザ医者」と呼ばれていた)をしていたが、キリシタンゆえに数々の迫害 と種々の屈辱にあったことから一時北海道に移住し、信教の自由が許された大正の始めに一家は帰能 し、田鶴浜に住み、その後現在の代田に定住したのである。 高山右近をしのぶ会・志賀 |
Webを検索すると、読み切れないくらいに詳しく載っていますので、興味のある方はそちらを読まれると
いいと思います。私も散歩して碑を見つけるまでは、高山右近の名は聞いたことがある
程度の知識しか
ありませんでした。今回またひとつ勉強になりました。

高山右近記念公園
('05年11月12日)
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