隠れ家周辺点描
桝形山(荒山城址)・芝峠
峠歩きを始めた頃、雪の降り始めの荒山峠を訪ねた。その時、峠手前を林道城石線へ左に入った処に
ある桝形山の駐車場を紹介した。そこで今回は、春真っ最中の5月2日に荒山峠へ寄ってから桝形山へ
向かう。まずは駐車場の城跡への登り口にある説明板で桝形山にまつわる歴史を見てから登ることに。
『荒山合戦古戦場 桝形山』
これより上がっていく標高486メートルの「桝形山(ますがたやま)」には、つぎのような歴史が
あります。
「荒山合戦記」によると、天正十年(1582)六月二日、本能寺の変で、織田信長が自刃したの
を機に、石動山衆徒は越後の上杉景勝に支援を求め、畠山の遺臣である温井備中守景隆と三宅
備後守長盛の両氏とともに、六月二十三日、桝形山に築かれていた荒山砦に籠もりました。
これに対して羽柴秀吉は前田利家に石動山攻略を命じ、利家は三千人の兵を率いて石動山へ
向かい、六月二十五日未明に石動山と桝形山の中間にあたる芝峠に布陣しました。(七月説が
有力である)そして、荒山砦の普請に向かう温井・三宅軍を急襲し、これを破った勢いに乗じて砦
に攻め入り、ついに荒山砦は陥落したのでした。(これを荒山合戦という)
この合戦に勝利した利家軍は、翌二十六日に一気に石動山院に攻め入って一山に火を放ち、
栄華を誇った石動山の堂塔伽藍は、ことごとく焼き尽くされたのでした。(これを石動山合戦という)
<ほとんどの漢字にはふりがながありましたが省略しました>
荒山城跡から見る邑知低地帯 この平野を挟んだ低い丘陵地と共に古代のロマン溢れるところなのだ。
道は、細かい砂利を敷き詰めた階段となっていて、足下には問題なく登れる。少し登ると後ろの邑知
平野が見下ろせるようになり、上を見ると立派な東屋が現れる。眺望を楽しみながら休憩やお弁当を
開くのには贅沢な程の東屋だ。頂上にはものの15分も掛からない。頂上からの眺望は更に素晴らし
く富山湾の上の更に上の雲海から姿を現している立山連峰や剱岳等々は感動ものだ。ずっと右には
白山も見える。双眼鏡を持ってくれば良かったのにと思った。
肉眼では、もっと光り輝いて見えたのですが、ただシャッターを押すだけなので、写真はうまく撮れま
せん。邑知平野を右に見て行くと、七尾湾や能登島が見え、能登富士と呼ばれる高爪山も望まれま
した。この山にお城を築いたのも頷けます。 頂上直下には幾つもの平らな処(郭)があり、山菜採り
の人の姿も見えました。山頂は一升桝を伏せた様に平らで、桝形山の名前はそこから付いたとか。
しばし、神々しいばかりの山々に見とれてから、上記の歴史の中に出てくる芝峠に行ってみることに
して駐車場に降りた。林道城石線は広い砂利道で舗装前の様に思われる。少し行くと道は細くなって
通行止めのゲートがあり鎖があったが、それは外れていて車が通っている様子だった。私はそこから
歩いてみた。今日は地図などは持って来なかったので、何か目印はないかとゆっくりと歩いた。
山菜採りの方の姿が何人か斜面に見られたが、峠の場所を聞くには遠すぎた。暫く行くと、道はまた
広くなって立派な展望台の処に来た。上がって見ると、展望台だけあって富山の方向の眺めは良い。
ここにも説明板があって、こちらには利家軍が石動山に攻め入ったのは七月二十六日となっていた。
石動山が行くて近くに見えたので、芝峠はこれより少し戻った小高い山を越えているということになる。
芝峠へ向かう掘れた道
少し戻ると斜めに山へ向かう道があった。樹々が倒れていたりしたが、しっかりしと踏み込まれた道で
進むにしたがってU字型の峠道の特徴がはっきりしてきて、ここが芝峠の道だと判る。山頂付近に来る
と道はあやふやになる。山頂は台風で大きな杉が倒れたりして荒れていたが、その隙間に513mの
三角点があった。氷見の方へ降りる道は灌木や雑草に覆われているみたいで、確認はしなかった。
氷見側へ降りて最初の集落は村木だが、荒山峠からの道も村木を通っている。しかし、能登側は何処
からこの峠を目指したのか判らない。石動山の僧侶などが行き来したのだろうか。お地蔵は勿論のこと
峠の目印になるような物は何も無かった。
先程の立派な展望台を作ったついでに、この峠の入り口にも小さな標柱でも建てて欲しいと思った。
△▲△峠についての大ベテランの方より、芝(柴)峠にまつわる歴史についての情報を頂きましたので、▲△▲
承諾を得て以下に掲載させて頂きました。
この峠は戦国時代、氷見森寺城の軍用道で、国境を守る要の道でもあり森寺城の塹壕も兼ねていた
とか。その後は、石動山道の角間道として使われたといいます。石黒信由の射水郡分間絵図を見る
と「大柴峠」と記載され、角間から大柴峠→県境をなぞって石動山へ通じてました。峠は、軍用道から
宗教の道へと大変わりした歴史がありました。
峠は、石場山(513.0m)の頂上でもあり富山・石川の県境でもある。名の由来は、昔この山から石
を切り出したところからであるとか。以前はこの石場山周辺も石動山の山域と考えられた。明治期
に作成された三角点の「点の記」には、この石場山の点名は「石動山」になっている。
疑問に思っていらっしゃる能登側からの道は、荒山峠から延びていました。(荒山峠が切り掘られ、
判別不可能。)そして、荒山城址の南側を通り、氷見からの通じる柴・芝峠経由の街道とつながり
石動山に通じていました。石動山道の一つ、荒山道です。
('05年5月2日)
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山頂は左よりの一番高い所 東屋の上は見晴台
山頂からすぐ下の蛇ケ池を望む