古寺&お地蔵巡り

波着寺
越之国観音霊場第十八番札所


現在は史跡として寺跡が残る廃寺だが、昔は隆盛を誇ったお寺であったようだ。場所は福井市成願寺町の山へ
少し登った処にある。入り口が判らなかったので、県道沿いのお家で菜園の手入れをされていたお婆さんに道を
訊ねた。そしたら、独りで登るのですか、だいぶ登りますよ、熊が出るかもと云うのだ。少しオーバーだなあと思っ
て山登りもしていますのでと云うと、私も白山を2回も日帰りしたし、乗鞍岳の頂上へも登ったとのこと、山登りが
お好きのようだ。話が長くなりそうなので、道を聞いておいとましたが、町内会長さんが在宅ならば寄ってみられ
たらいいのだがとも云っていた。

 
国道158号線成願寺口から入り、県道に突き当たって右すぐ

県道からの入り道は案内の標識がありすぐ判った。ちょうど住宅の大きな展示場が反対側にあるところだ。そこ
を入ると190m程で石の鳥居がある。側に電話ボックスみたいなものがあり、波着寺縁起がぶら下がっているし
波着寺かわら版が置いてある。参詣された方が記帳する用意もあったが、平成17年になってからの記入はなか
った。



鳥居からくねくねと幾つもの案内標識のある道を登って行く。竹林が多い。観音堂跡、お泉水跡、鐘堂跡そして
波着寺本堂跡へと、およそ県道から800m弱歩くことになる。茄子畑跡というところもあった。谷底という感じの処
だったが、昔はここに茄子畑があったのだろうか。距離は短いが私としてはひと汗かいてしまった。本堂跡は平ら
で太い杉が沢山あった。私は、廃寺と聞くとそれだけで何か侘びしい雰囲気を想像してしまう。そして訪れてみた
くなる。今はただの平地だが、そこには多くの栄枯盛衰の歴史が秘められているのだろう。


波着寺本堂跡

                 波着寺縁起 登り口にあったものです。

 当寺は養老年間(717〜723年)に泰澄大師により開かれ、もとは小浪山(現在の新保宮山)の麓にあった。
当時、足羽川は我が字の腰を流れていたので、洪水の折りには川波がこの寺の堂下まで打ち寄せ、いつしか
波着寺と呼ばれるようになったと思われる。
 この寺は、本尊として十一面観音を安置し、真言宗に属していたが、平安時代は特に観音の霊場として知ら
れていた。
 以下足羽郡誌には、
●寛元元年(1243年) 永平寺開山の道元禅師が越前に来られたとき、最初に身を寄せられた。
●文明6年(1474年) 波着寺を主戦場とした「波着、岡保の合戦」があり、被害を受けた。
●天文17年(1548年) 朝倉孝景が波着寺に参詣し、その帰途急死した。
●天正2年(1574年) 加賀の一向一揆が越前に侵入し、平泉寺を焼き払い、当波着寺も兵火で焼失した。
などと記されている。
 町名である「成願寺」の名が出てくるのは、朝倉盛衰記(下巻)である。
 この当時、成願寺の地は、一乗谷朝倉氏の重臣であった前波九郎兵衛が治めており、朝倉方の要衝として
城が築かれていたことが知られている。
 今も、当地に「大門」「によう道」等の地名が残っており、山頂に向かう参道には「波着寺」と刻まれた石鳥居
がある。このほか、同寺の本堂、経堂、鐘堂とされている跡地には古い礎石が残り、山上の尾根には、郭(くる
わ)、堀切など、朝倉氏時代の山城の遺構も広く存在している。


                 ◎波着寺かわら版 
           波着寺縁起と内容が重複しますが、そのまま載せさせて貰います。


 本日は、ご遠路をようこそお参詣り下さいましてありがとう御座います。
 当波着寺(波著寺とも書く)は、寛元元年(1243年)永平寺開祖の道元禅師が入越されたとき、第一夜を過
ごされた場所と云われ、鳥居も古く、中央正面には「波著寺」と刻まれています。その後、文明六年には当寺を
主戦場として波着岡保の合戦あり、更に天正二年には、加賀の一向一揆が、越前に侵入し平泉寺を焼き払った
時、当波着寺も兵火で焼失され今は廃寺となり、お隣りの石川県の兼六園近くに移されて波着寺として祭祀さ
れています。
 これより先、山頂へ600mの地点には、成願寺城の跡を始め、高楼、郭(くるわ)、観音堂、鐘堂、お泉水跡等
礎石、堀切りなど一部原形を遺しており、その当時が偲ばれます。また近年、参拝客として京都の曹洞宗仏法
研修者の一行を始め郷土の歴史に興味のある県内外の方々が永平寺参拝の記念に立ち寄られています。
 当町内としても、ふるさとおこしの一環事業とし市当局のご支援を得て参道の整備、各堂跡の標示、整地な
ど復元を目指して努力致しています。ご協賛下さるようお願い致します。
                                                    成願寺自治会

波着寺は幾つかの文献に少づつ記述があるが、私が今回参考にしている「越の国三十三番札所案内(札所
参拝のしおり)」<昭和49年>では、『足羽郡誌によると天正年間長谷川藤五郎秀一愛宕坂へ移せりとあり、
調査の所現在の鯰の堂と五岳楼との間にあった・・・』また、『金沢市に波着寺なるものあり調査の処山号泰澄
山波着寺と読んでいる。開祖は安養坊空照。越前足羽郡波着寺に居た頃前田利家の祈祷所であったので金
沢に召寄られ広坂の地に寺地を賜りたが元和五年現在の所に移転せしめられた。寺封十一石五斗とある。』

高嶋勝栄著「泰澄大師」(昭和54年)によると、『当寺は養老年間泰澄大師が旧足羽郡酒生村に開基せられて
成願寺と号された寺である。天正元年織田信長の兵火にあい焼失したのを、天正13年に足羽郡東郷の城主と
なった長谷川秀一(15万石)が福井市足羽山中腹に移転改築した後、前田利家が祈願所としていたが、元和5
年(1619年)前田利家公は越前より加賀の金沢城主に転任したので、波着寺を伴って加賀藩祖となり、寺は金
沢市内石引2丁目に移転させた。』とある。前述のものとほぼ同じ内容とみていいと思う。

足羽郡誌大正4年10月・1915 増田庄太郎著)の記述は下記の通りですが漢字は簡略化してあります。
『般若寺跡 一名波着観音 (酒生村成願寺)                                       
櫻谷垣内ニ、十一面観世音ヲ安置ス、一小祠アリ、足利時代有名ナリシ波着寺ノ面影ニシテ、戦国時代ノ頃、兵
火ニカカリテ焼失シ、住僧は加賀ニ逃レ那谷寺ヲ開キタルモノナリトイフ、口碑アリ、其近傍戸ノ池ト称スル平坦ノ
地アリ、寺ニ関スル古蹟、歴然トシテ存ス、山麓ヲ大門通リト称シ、路傍入道岩アリ、又古華表アリ波着寺と記セ
ル文字アリ。史ニ曰ク朝倉孝景天文十七年三月二十二日波着寺参詣、路次ニテ頓死年五十六トアリコノ寺ニ関
セル事ナルカ』

足羽郡誌後編(昭和47年12月・1972 編纂者石橋重吉の記述は、上記のものに肉付けした様に思えるので
載せるのをやめたが、波着寺の名前の由来等(水利が治められる以前には波が打ち寄せたので)の記述もある。

越前若狭地誌叢書(上)(昭和46年9月 編者・杉原丈夫・松原信之)の記述は次ぎの通り。『愛宕坂波着寺(ナミ
ツキジ)観音 養老年中一乗ニテ泰澄開基。天正年中長谷川藤五郎秀一当所ニ移ス。三国滝谷寺末寺也。当時
普覧院兼帯。』
新訂越前国名蹟考(昭和55年10月 編・杉原丈夫 松見文庫)は、編者が上記の地誌叢書と同じなので同じ文
だった。新訂でない古い越前国名蹟考を見てみたい。

('05年3月31日)

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波着寺縁起の横に描かれていたもの 「現在地」ではなく鳥居の処にありました。