隠れ家とその周辺点描
五里峠
私の隠れ家の前の道を先に進むと、別荘地を抜けて五里峠の集落へ入る。集落と云っても
家はまばらに点在している状態で、道沿いには養鶏場の残骸が無残な姿をさらしている。
以前から何処が峠で古い峠道は残っているのかなと関心を持っていたのだが、この辺りでは
めったに人に会わないので聞くことも出来ないでいた。
五里峠地区の南のバス停近くを歩いていたら、一日に数本しか通らないバスが停まって、
一人の老婆が降りたのだ。さっそく駆け寄って五里峠と云うのは何処を指すのか聞いてみた。
すると老婆は「そんな処は昔から無かった」と言う。「よく知らないが、誰かがそう呼んだから
ではないか」と言うのだ。ちょっと期待外れだった。
「五里峠」の標柱は集落名を表すもの。 左の建物は集落の集会所
そこから少し北へ行くと、五里峠環境放射能観測所があって、私としてはそこが峠の跡の様
な気がしていた。 そこから右へは細い踏み跡が降りていたし、左には林道が海岸のほうへ
向かっていて、先日はその林道を海岸まで歩いてみたのだ。
また、五里峠北のバス停の辺りも峠と呼べそうな処だ。舗装道路が越えている。その先へ
道は緩やかに登り、地図によれば四等三角点、点名「五里峠」というのがあることになって
いる。道端くらいにあるはずなのだが見当たらなかった。
志賀町立図書館で、五里峠出身の作家・渡野玖美(わたりの くみ)さんの「五里峠」と云う
本を見つけた。図書館に二日通って、五里峠という一編を読み終えたが、五里峠集落での
子供の頃の生活が中心で、「峠」そのものについての記述は無かった。 ただ五里峠と云う
名前の由来について角川日本地名大辞典を引用したものが載っていた。
その大辞典の平成3年9月第3版を見ると「五里峠山塊は、志加浦東方の海岸段丘が発達
して南北に連なり、江戸期には町村から富来郷牛下(うしおろし)までの道を開削して五里
峠と称した。「能登名跡志」には、駅馬にて富木へこゆるは従来二筋あり、一筋は五里峠と
して、二里余は人家なし難所なり、併是は本道也と見える」
五里峠地区には戦後、海外引揚者の開拓団が入植し、酪農、野菜栽培等を行い、その後
養鶏や庭木、ポンプ揚水口が設置されてからは水田の耕作も可能となったとある。いろいろ
な苦難の歴史があるのだろうが、縄文遺跡も散在するロマン溢れる地でもあるようだ。縄文
人は日本海へ陽が沈む美しい光景を眺めていたことだろう。
(’06年7月15日)