古寺&お地蔵巡り
勝載山 永厳寺
若狭観音霊場第一番札所
山門
このお寺は、天狗党と関わりがあると云うことで、前から一度場所だけでも知っておきたいと思っていた。
場所は、福井からだとセメント工場の横を通ってトンネルを抜けて市内へ入ると左側にある。この国道の下を
旧参道が通っていて、山門をくぐると沢山の石仏が見られる。
昭和二十年の敦賀大空襲ですべてを焼失して、残ったのは梵鐘だけで寛文五年の銘があり、これは県の
文化財に指定されている。故に建物はすべて戦後に復興されたものである。
正面は観音堂 右鐘楼
武田耕雲斎等水戸浪士の一団・天狗党は京へ向かう途中、自分等の望みが潰えたのを悟り、ここ敦賀で
降伏した。そして史上まれに見る353人斬首という苛烈な刑を受けることになる。 このとき、当時の住職が
まだ幼い少年達の命乞いを申し出て少年達を引き取った。 また、遠島者等は引き続き鰊倉に幽閉されて
ていたが、翌年には小浜藩預かりとなって倉から永厳寺に移されて 一年程ここで過したのではないかと思
われる。彼等は1868年水戸に帰ることが許され、京から江戸を経て129人が水戸に戻った。
境内にはそれらについて記した碑などは見当たらなかった。松原神社には鰊倉が一棟移築されて記念館
として資料が展示されているそうだ。
山門をくぐった所から見る 左上本堂 右上鐘楼 今立っている周りには石仏が多い
建物などの配置が何故か雑然と云うかすっきりしていない。曹洞宗だが美しい庭というものは無い様子で
鐘楼の前の住処には沢山の洗濯物が春風にはためいていた。本尊は千手観世音菩薩だそうだが、観音堂
の中には、大きな純銀阿弥陀如来坐像が鈍い光を放っていたのだ。
(ご詠歌)
我が罪を 包みおさめる 観世音 天筒の嶺に 月ぞ照りはゆ
('08年5月1日)
HOMEPAGEへ 古寺&お地蔵巡りへ戻る