北陸の峠道
野麦峠
あちこちの峠道を歩いてみたいと思っている者にとっては、是非一度は歩いてみて、その雰囲気に触れ
てみたいと思う峠道だ。やっとその機会がやって来た。 北陸からは外れるが、昔、能登鰤(ブリ)を運んだ
峠道でもあるので、まあ番外編とせずにしておきます。
野麦峠を越える道は、鎌倉時代から拓かれていたとあります。江戸時代には飛騨高山と江戸を結ぶ道で、
信濃からは米、清酒、飛騨からはブリや塩などが運ばれたそうですが、明治に入り飛騨の若い娘達が糸引き
工女として諏訪地方とを往来し、あまりにも有名な「あゝ野麦峠」として全国に知られるようになりました。
水準点があり墓石が一つあります。この辺りが峠だったのではないでしょうか
この峠の標高は1672.29mで、一等水準点がります。日本で一番高い所にある水準点だそうで、明治
36年に設置されていて、峠を越えた製糸工女達もこの石を見ながら、故郷への道のりを急いだことでしょうと
ありました。1672mと云えば、福井県の経ヶ岳より50m近くも高いので、真冬の降り積もった雪の峠道を越
えるのは考えただけでも大変なことです。谷へ落ちて命をなくす者もいたのですが、それ以上に工場での苛酷
な労働で、多くの娘さんの命が奪われたのでした。
復元されているお助け小屋 売店、食堂、宿泊施設のあるお休み処だ
我が家からはとても遠いので、何処かで一泊しようということになり、紆余曲折の末、野麦峠の駐車場で車
の中で寝ることに。お助け小屋に泊まれるとガイドブックにあったので、非難小屋みたいに寝袋を持って行けば
泊まれるのかなと思ったのですが、それは甘い考えでした。お助け小屋と云うのですけどね。
今回歩いたのは、峠から飛騨側は県道へ出るまでの4.2kmを往復。松本側もワサビ沢までの1.3kmを
往復しました。この1.3kmは、長野県により「旧野麦街道」として県史跡に指定されています。
野麦集落の少し先に旧野麦街道の入り口がある
じぐざくに緩やかに登る
尾根上の地蔵堂 ここから平坦な道になる
左に急な谷を見下ろしながらの道 ブナの大きな樹がある
野麦の集落を過ぎてしばらくで県道から旧野麦街道に入る所があります。最初は川沿いの林道という感じ
ですが、やがて標識から左へ入る。綺麗な沢を渉ってから緩く高度を上げてゆき、尾根を越えるところに地蔵堂
があります。 ここからは急斜面に付けられた平坦な道ですが、雪のときは非常に危険なところとなる。屈強な
ボッカでさえも命を落としたそうで、工女達は帯紐を繋ぎ合わせて落ちた仲間を救い上げたこともあったという。
飛騨側は、今の季節に歩けばゆったりとした峠道だ。工女達も、もしこの時期に歩いたとしたら
明るい話や笑い
声が飛び交い、楽しい道行となったに違いない。
松本側へ降りだすとすぐに三地蔵がある
こちら側は飛騨側より少し急です
ワサビ沢の旧野麦街道入り口
松本側は、背丈ほどの笹の中を通って下っている。すぐに三地蔵がある。この三地蔵は、その時代時代に
この峠道で亡くなられた方々の冥福を祈り、供養の花が供えられて来たが、車が通るようになって、何者か
によって持ち去られてしまったという。 それを残念に思った方が、多額の自費を投じて再建したとの由来が
書かれてあった。 県道に出ると石碑や看板があり駐車場もある。今の時期、登りは一汗かかねばならない。
峠には土曜日とあって各地から車が次々とやってきていた。しかし、旧野麦街道を往復しても誰にも出会う
ことはなく、静かな峠道を歩くことができた。峠には「野麦の館」(資料館)があり、見学しようと思ったが一人
500円とあったのでやめにした。
(’07年 7月 28日)
2万5千分の1地図「野麦」 往復なので4時間半ばかり歩いたことになります。
参考にしたのは、山と渓谷社の新・分県ガイド「岐阜県の山」、昭文社の山と高原地図「乗鞍高原」です。
峠にある兄に背負われた政井みねの石像 病に侵された政井みねは兄に背負われて故郷へ
戻る途中、この峠で「あゝ飛騨が見える」と言って息絶えた。 明治42年11月20日午後2時
みね二十歳だった。
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