隠れ家とその周辺点描
坪野哲久文学記念館
昨年(2006年)の7月にオープンして、能登へ来るたびに前を通るのだが、歌人というあまり馴染みの
ない分野の方なので、訪問が延び延びになっていた。で、カミさんがワラビ採りに精を出しているので、一人
で散歩がてらに出掛けることにした。そしたらカミさんも行くということになり、結局、ワラビを探しながらと云う
ことになってしまった。
坪野哲久は、明治39年(1906年)にここ志賀町高浜に生まれた。 昨年はちょうど生誕100周年に当たり
いろいろな記念の行事が催された。そして坪野哲久の甥にあたる若狭駿介氏の尽力によって、時代の先駆的
存在であった前衛歌人坪野哲久の文学記念館がオープンされたと、リゾート内のタウン誌に紹介されています。
坪野哲久のプロフィールを簡単にまとめると、東洋大学に入学し「アララギ」に入会。卒業すると東京ガスの
人夫となり労働組合運動を始める。1930年24才で第一歌集「九月一日」を刊行するも発売禁止となる。25才
で山田あきと結婚。夏、戦旗社員として検挙され起訴猶予。東京ガスの社外工となるが再検挙。 26才のとき
東京ガスのストライキ中に喀血し病臥3年。
29才(1935年)練馬街道に焼き鳥の屋台を出す。31才で歌誌「鍛冶」創刊。その後第二歌集「百花」、
合同歌集「新風十人」第3歌集「桜」刊。36才(1942年)治安維持法違反として検挙、留置場で喀血、その後
仮釈放となる。「鍛冶」発行中止。治安維持法起訴猶予となる。
1946年(40才)で「人民短歌」に参加。その後、「鍛冶」再刊、第4歌集、第5歌集を出す。「赤旗」歌壇の
選者を10年間つとめる。1988年82才で死去するまでに第11歌集を出す。その他いくつもの歌誌を発刊し、
第7歌集「碧巌」では第23回読売文学賞を受賞している。また 妻の山田あきも歌人で夫婦の歌碑がここ志賀
町にある。
プロフィールを見て行くと、大変な時代を果敢に生き抜いたすごい人だなと思いました。館内は撮影禁止です
ので雰囲気はお伝え出来ませんが、年老いた彼の風貌は凛として仙人とはこの様な人かなと思わせられます。
歌碑に刻まれた歌を紹介します。
『 蟹の肉 せせりくらえばあこがるる 生れし能登の冬潮の底 哲久
』
『 きみと見る この夜の秋の天の川 いのちのたけをさらにふかめゆく あき 』
「坪野哲久と山田あきは、生涯を通じて、お互いの人格を尊重し、志と愛を貫いたあらゆる意味での同志」だったと
紹介されています。(歌人 山本司 氏の談話より一部を引用させて頂きました)
(’07年 4月 24日)
坪野哲久文学記念館は、能登ロイヤルホテル東館向かいです。