北陸の峠道


池河内越(麻生坂)

この峠道は、若狭池河内から朽木の麻生へ越える道だ。 上杉喜寿著「峠のルーツ」をたよりに、今回は
まだ谷には雪があるので、尾根を登る木地山(麻生)側から歩くことにした。 本の簡単過ぎる略図と文面から
 木地山の中小屋集落の階段を登った所にある小さなお寺と神社のところからの尾根を辿るのだと考えたのだ。
 階段への入口にお婆さんがおられたので訊ねてみたところ、池河内越などは聞いたことがないと云う。駒ケ越
と木地山峠についてはご存じだった。まあ、とにかく登ってみようと神社の横を通って尾根に取り付いた。


左がお寺 右上が神社 この裏から登った 道路から写す

実は以前にもここの爺さんに聞いたことがあるのだ。尾根に登る道は無いし、尾根上に道があるかについても
否定的だった。 急で確かに道の無い斜面を登る。しかし、なだらかな尾根が始まると、そこは歩き易い道と言う
べきものだ。 峠道の特徴こそ無いが安心して歩ける道だ。 それに、今日の快晴の春の陽気が気分を爽快にし
てくれる。今日は一人で時間も気にすることもなく、もっとも好ましい環境下で山歩きを楽しめるのだ。


歩きやすい尾根

やがて尾根に林道が絡み合っている部分を通る。林道には雪があって古いカンジキの跡があった。こんな良
い尾根があるのにわざわざ林道を歩かなくてもと思ってしまうが、まあ人それぞれだ。稜線に出るまで峠道の
痕跡らしいものは見当たらなかった。出た処には駒ヶ岳への矢印の小さな板が下がっていただけだ。若狭側
には降りやすそうな尾根があったが、北側なのでまだ一面の雪だ。南西にはすぐ傍に百里ケ岳が眩しい。


上の写真:稜線へ出た処        下の写真:稜線はこんなに歩きやすいところだ


稜線は素敵な散歩道という感じだが、雪が残っている処はズボズボと歩きにくい。それで少し稜線を歩いて
見る予定だったが新しい標識のある与助谷山迄でやめた。755.8mとある。小数点以下まで判るとは三角点
でもあるのか? 木地山峠まで2.8km、駒ヶ岳まで2.4km、木地山中小屋まで2.3kmとあって、この中小
屋へ下る尾根を与助谷右岸尾根と呼ぶらしい。ここにも若狭側から歩き易そうな尾根が上がって来ている。ここ
が峠なのだろうか? ブナ等の樹があったりして気持の良いところで、雪が融けたらこの稜線を歩いてみたいと
思う。


上の写真:与助谷山山頂              下の写真:広い雪の尾根は気持ちよい


 さて、この与助谷右岸尾根に峠道の痕跡を求めて下ることに。上の方暫くは雪があってさくさくと調子がいい。
雪が無くなるころから右側はずっと杉の植林となってしまう。その一本一本に水色のテープがぐるぐる巻きにして
ある。大変な労力を必要とするのではないか。ここも峠道らしい道ではない。半分位降りた処に新しい道標があ
った。それには池河内越とあるではないか。おおっ、こっちの尾根だったのか。そこで腰を降ろして大休止、甘い
コーヒーで塩せんべいを食べた。これが美味しい。 よく「小丸せんべい」を食べた子供の頃を想い出したのだ。


この標識の杭に取り付けられた板に「池河内越」とある

そこからちょっと急な坂を下って、2本の古木の横を通って降りて行くと、神社跡という標識の処に出る。 昔は
神社の参道だったのだろう道らしい道となって、しばらくで林道の入口近くへ降りた。 中小屋から白い舗装された
林道を100mほど入った左手が登り口となっている。今日は有意義な半日を過ごせた。雪が融けたら若狭側から
辿ってみたい。人気の無い中小屋の集落を車に向かって歩いていると、夫婦の河童の像があって、思わず写真を
撮ってしまった。あまり大写しにしない方がいい様な気がする。



(’07年2月20日)

2万5千分の1地図「古屋」 地図が古いのか林道が載っていません。実際には林道が中小屋から今日
歩いた尾根に挟まれた谷沿いに上がり、右手の尾根を横切り696mピークの直下を通って674mへ達して
います。途中枝道もあります。
001地点林道の枝道の部分に出た処 003与助谷山 004ここの道標に池河内越とあった 005神社跡
右側の沢沿いの点線は駒ケ越 左の沢沿いの点線は木地山峠へ 中小屋から流れ出る川は麻生川です。

「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)
及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。    (承認番号 平17総使、第657号) 」

この地図上の経緯度線は日本測地系にもとづいています。.上図は2万5千分の1の縮尺ではありません。
等高線をハッキリ表示させるために拡大してあります。
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追記
金久昌業著「北山の峠」(全3巻)に、若狭の池の河内側から中小屋まで辿った記録が載っていました。
その当時、すでに道のほとんどは消えており、峠の位置もだいたいこの辺りという状態だったようです。