北陸の峠道
竜興寺坂はここか
(5月12日の記録を地図の後に追加)
竜興寺坂の石碑 白い花はシャゲ そこらじゅうに咲いていた
やっと竜興寺坂を歩くことになった。登り口からシャガの花が沢山咲いている。シャガは薄暗い日陰の
斜面に群生している白い花だ。花びらを見ると、とても繊細な模様をしている。登り口の石碑に「ここ岸水
町より本郷(八幡町)に至る山道を竜興寺坂と呼びます」とあり、それだけを頼りにしているのだが、石碑
には、ここが昔の峠道が始まっていた処とは書いてない。 (石碑の文面についてはこちら)
始めのうちはあまり良い道ではないが、やがて峠道みたいな雰囲気のところも現れる。
そして小さい
尾根に載った002地点で、下からよく踏み込まれた道が上がって来ている。今は使われていないので潅
木が生えていて歩きにくいと思われる。これが昔の峠道かどうかは判らない。
巡視路に沿って所々でU字型に掘れた古い道が見られる
そこから003地点までは、巡視路に平行する様に深いU字型の特徴を持った道が何箇所か見られた。
このまま行けばと期待したのだが、003地点で巡視路はヘアピンカーブのようにして北向きとなる。他方
そのまま西へ踏み跡があるので、こちらへ行くしかないと巡視路から別れた。 しかし、この道は藪が濃く
なり、方向も南へ向かいだしたので引き返した。
003地点でもっと慎重に西へ進む踏み跡を探すべきだったかもしれないが、明瞭な巡視路を辿ること
にした。 それで今度は天菅生町からの破線の山道へ巡視路が繋がっていないかを探しながら歩いた。
004地点で巡視路が分岐していたが、これは谷へ降り、008地点を通って破線の道の、2本の送電線
の間くらいの所へ出て、そこから009地点へ近い。009地点までは車で入れる。
004から005・天菅生町へ、国道を歩いて出発点へ戻り、車で009地点へ行き、008地点まで歩い
て往復した。それで時刻が4時を廻ったので、今日はここまでとした。 次にここへ来るときは、もう一度
岸水町の石碑の所から003地点へ登り、西へ行く道を探すか、天菅生町から地図の破線の道を進む
か、それとも八幡町の入山禁止の立て札の所から林道へ入るかのどれかと云うことになる。
この文章は29日に書いているが、昨日の歩きが影響したらしく、朝起きたら骨折部分がしくしくと痛む
ので、敦賀行きの予定を取りやめて家に居ることにした。
(’08年 4月 28日)
(5月12日の記録を地図の下に追加 地図も更新しました)
2万5千分の1地図 「越前森田」
---- GPSの軌跡です ----
「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)
を使用したものである。(承認番号 平17総使、第657号) 」
<追加>5月12日(月)
再び竜興寺坂へ
朝から快晴なので家に居るのが勿体ない気がする。それで再び竜興寺坂の石碑の処へやって来た。
登り口の傍の畑にいたおっさんに竜興寺坂について尋ねてみた。しかし、余計判らなくなったという感じだ。
もう10年以上も山の中には入っていないそうだ。昔、一向一揆の頃には今の様な道路はなくて、船で岸水
の辺りに乗りつけたらしい。それでこの辺りから近隣のお寺や、山を越えて本郷の方へ行ったという。
今回は岸水町から前回歩いた001から003まで歩き、003からGPSの軌跡が録れなかったが、左へ
道の無い台地状の上を通って001へ。 001の手前で浅い谷へ降りるが、そこから鮮明な道があって、
地図上の山道の点線手前で位置を確認した。
ところが地図を見て西へ行けばいいのだとその方向へ向かったつもりが(少し道は北よりかなとは思った
のだが)何と北東へ進んでしまった。そこで点線の道を横切ったはずなのだが気が付かなかったのである。
U字型の掘れた道を下って002の鉄塔で休憩して、このまま下ることにした。あまり足に負担が掛からない
様にするためと、お菓子を少々しか持って来なかったからだ。
その先003まではU字型の道で迷うことはなかった。003は鉄塔のそばで、そこからは巡視路が右へ降
りていた。巡視路を降りれば良かったかも知れないが、昔の道を歩きたかったので尾根を下ったが、急に
道に潅木が生えていたり荒れてきて、その内にU字型の道が無くなってしまったので左へ降りたら004の
林道へ出た。剣大谷町を通って車へ戻った。 竜興寺跡を見るのはまたお預けになった。
3時間強歩いた為か右足首が疲れた感じになった。 それで舗装道路はゆっくりと歩いて来た。
車の中で
お茶を飲んでいたら車が1台止まって 作業服姿の二人連れがさっさと巡視路を登っていった。電力会社関係
の人らしい。何を見て回るのでしょうかね。
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