還暦つれづれ草


3月10日

 今日は3月10日、昭和20年あの東京大空襲があった日です。
その頃はすでにラジオからは妨害電波が、ぐにゅぐにゅとこの世では2度と聞くことのない不思議な音を流していました。 近くの学校は強制的に取り壊されて、私達子供の格好の遊び場になり、 近所の人達も潰れた壁や柱の間から、奇麗な色刷りの本や花瓶を見つけて持 ち帰っていました。私の記憶では、本は花や花瓶の写真や絵だったと思う。

  その時は、青山3丁目付近の銀行の裏辺りに家を借りていた。おおきな防火用水(プールだったかもしれない)が目の前にあった。銀行にはコンクリートで出来 た立派な防空壕があった。

 その夜は近くで高射砲の射撃音が激しくなり、ただならぬ事態であることが子供の私にもわかった。焼夷弾の一群が夜空にくっきりと音も無く落下して来るのがみえる。編隊の飛行機が次から次ぎと尾を引いて飛んでいくよう な感じだった。あちこちで空が真っ赤に染まり、やがて火の粉がところ構わず降りそそぐようになった。
 近所の人達と銀行の防空壕に避難していたが、その内、ここにいても危ない ということになり、青山墓地へ移動することになった。私の母は、引越し真近で布団袋に包んだ布団を、防火用水へ投げ込むとかで残った。私は祖母と近所の人達と共に火の粉の中、すでに焼け落ちた家の側を通ったりしなが ら青山墓地へと急いだのでした。

 青山墓地は沢山の人で溢れかえっていました。みんな火の粉が墓地の木々に 燃え移らないかと不安そうに空を見ていましたし、私は母がなかなかやって来ないのが、とても心細く感じていました。

 やがて夜明け近く、空襲もおさまり家に戻ると、一面の焼け野原で、母が防火用水に投げ込んだ布団袋も燃えてしまったようでした。母は、庭に掘ってあっ た小さな防空壕に入るだけの荷物を詰め込んで蓋をしていたので、昨夜は遅 くなったようでした。

 その頃は、何を食べていたか思い出せませんが、焼け残った学校みたいな所 へ連れて行かれ、焼けこげた米で炊いたおにぎりを貰って食べたのだけは覚 えています。途中、焼けこげて小さくなった遺体が半分むしろを掛けられて転がっていました。その後、焼死体を積んだトラックが何台も走っ て行くのを見ました。

 庭の小さな防空壕の中で2〜3日過ごしたと思います。配達先を無くした新 聞が焼けた銀行の角に何部か置かれていました。私達防空壕に居る人の為か、乾パンの袋が新聞と共に置かれていたのが印象に残っています。

 この東京大空襲には、325機のB29が36万発の焼夷弾を投下し、およそ9万人の死者が出たのです。

                                             ('00-03-10)


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