福井の小さな山歩記
大滝神社奥の院へ登る
10月2日(月)快晴。遠出をするとガソリンを使うので、今日は武生・今立近辺の泰澄ゆかりのお寺か
神社にでもと出掛けることに。 武生や今立の方へ行くのなら、お昼に美味しいお蕎麦でも食べたらと
カミさんが昼食代に千円くれたので、それではと今立方面にする。
この10月1日より越前市となった今立は大滝の、泰澄ゆかりの大滝・岡太(おかもと)神社に向かった。
大徳山の山頂付近に奥の院がある。 養老3年(719)に泰澄は大徳山(権現山)を開き社殿を造営し、
十一面観音菩薩を本地仏とする神仏習合の大滝児大権現と称した大滝寺を建立した。山上や麓に七堂
伽藍を建て、四十八坊を設け、多くの衆徒を抱えて賑わいを見せたという。
朝倉氏の保護も受けて繁栄を誇ったが、信長の一揆討伐の際、武将滝川一益により火を放たれ全山
灰じんにきした。現在の建物は天保10年(1839)に建てられたもので、本殿・拝殿は共に国指定の
重要文化財である。
岡太(おかもと)神社も一緒にあって、何やらややこしいが、こちらは越前和紙の作り方を里人に伝えた
とされる川上御前が祀られ、紙の祖神として崇敬を集めている。
大滝神社に向かうと、まず目に入るのが大きな赤い鳥居の手前右側の「大滝神社・岡太神社」と彫られ
た大きな石の社標と呼ばれるものだ。後ろを見ると昭和15年4月皇紀二千六百年記念とあって、寄進
横山大観と読みとれる。私が生まれた翌年だ。
本殿 杉が邪魔だった
本殿はなかなかいい雰囲気を感じさせる建物だ。境内をうろついて何枚か写真を撮って奥の院への参道
を登った。暑くなってきて汗をかきそうなので、ペットボトル一本とカメラとタオルを腰に付けたり首からブラ
下げたりして広い階段状のジグザグ道を登った。
山伏岩跡、神馬神くらの化石、神馬の足跡、み火たき所と途中いくつかの標柱がある。それぞれ云われ
があるのだろう。ゼンマイ桜の看板がある所で、後ろから手にした熊ベルを忙しなく鳴らしながら坊主頭
のあんちゃんが追い抜いて行った。後で思ったのだが、奥の院辺りで追いついてくれたら良かったのだが、
私が奥の院に着いた時には、もう熊ベルの音もなく静まり返っていたのだ。
奥の院 左から八照宮、大滝神社、岡太神社
弐の杉 お手洗い 清水が湧き出ている
奥の院から「弐の杉」の案内に従って先へ進んだ。これが大きな間違いだったのだが、今日は大徳山の
山頂へ行く予定をしてなかったので、全く道の状況も知らず地図もない。「弐の杉」から戻れば良かったの
だが、更にこのぶんなら大徳山の頂上に行けるかなと先へ進んだ。そうすると踏み跡が薄く小枝が煩くな
ってきたのだ。緩い登りで石の角柱があるちょっと開けた処に出た。ここが山頂なのか、それにしても何の
標識もない。右に薄い踏み跡がありそうだったが、目の前にリボンが下がっていて、尾根が降りているの
で、ここからならすぐに下へ降りられそうに思えた。道もあまり良くないし早く降りようと思ったのだ。
一瞬頂上かと思った処
事実真っ直ぐに薄い踏み跡の急な尾根を下って林道の終点に出た。もう下界が見えていて、そのまま続
けて尾根を降りればすぐ下に着く様子だったが、林道の方向が大滝神社に戻る方向に思われたので林道
を下った。歩きやすい林道で、417号線の轟井地区という処に降りた。轟井地区案内図によると、すぐ近
くに青山登山道というのがあった。大徳山のことか。私はこの時になっても、大徳山のその他の登山道が
大滝に近い所で、轟井側ではないということを知らなかったのだ。それで417号線で役場を経由して大滝
神社までだいぶ歩くことになってしまったのだ。
国道417号線の轟井地区 真ん中奧の林道を下りてきた 看板は「里山と田んぼ 自然体験学校森の駅案内図」
この文は還暦つれづれ草にするか古寺巡りにするかと迷ったのだが、結局、道無き道や林道・国道を合計
3時間近く歩いたので、小さな山歩記に載せることにしたのだ。粟田部の「森六」でおろし蕎麦にありつい
たのは、午後2時半にもなってしまっていた。家に帰って洗濯物を取り込まねばならないので、そうぐずぐず
してはいられない。
家に戻ってWebで大徳山や大滝神社を紹介しているホームページを見て笑ってしまった。奥の院で何故左に
行く道に気がつかなかったのだろう。 「弐の杉」は2番手の意味で、肝心の大杉は別にあったということも。
でも、今日はなかなか楽しい里山歩きだった。
('05年10月3日)
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